明治29年(1896年)の移築から
第十世伊藤伝七翁の住居として利用されていた伝七邸。
かつて偉人たちが集い、思いを巡らせ、近代産業発祥の拠点であった歴史的建造物は、明治39年(1906年)から平成29年3月(2017年)まで、料亭浜松茂として皇室関係者や政財界、芸能界の有名人から愛される要人御用達の迎賓館的な存在となり、三代に渡り四日市の繁栄の象徴であり続けました。
しかし、2017年、120年余繁栄し続けた伝七邸は存亡の危機を迎えます。
建物の老朽化と後継者不在のため、料亭浜松茂はその歴史の幕を閉じることになったのです。
そこで、この地の再建に乗り出したのが、11代目九鬼紋七でした。
伊藤伝七と同じ時代に四日市の発展に尽力した同志でもある九鬼家の11代目九鬼紋七は、建造物そのものだけではなく、開拓者としての第十世伊藤伝七の志−地域の発展と生活者の幸福を願う熱い想い−を次世代に継承するために、“コミュニケーション”“情報発信”“次世代教育”の3つをコンセプトに人と文化が交流する料亭を目指し、「伝七邸」を再開業いたしました。
建物のうち、玄関棟、さつき棟の2棟は、国の登録有形文化財として登録されています。
第十世伊藤伝七翁
嘉永5年(1852)生まれ。伝一郎と称し、小さい時から父9世について大矢知の代官所に出仕し、父の役職代理を務めるまでになった。
明治10年(1877)、意を決して堺紡績所へ入所し紡績に必要な全ての業務を学ぶ。その後、父とともに紡績所を起こし、川島紡績所を開業する。これが三重紡績の前身である。
父の死後、国立第一銀行頭取、東京商法会議所会頭の渋沢栄一氏の援助を受け、明治19年(1886)資本金22万円の三重紡績を起こす。三重紡績はそれまでは麻糸製で高価だった漁網を、初めて綿糸での製造に成功。また、インド綿の輸入を率先して行った。
三重紡績は次々に工場を拡大。
さらには東海地域の多くの紡績所を買収し、大正3年(1914)、渋沢栄一の仲介により、資本規模において当時第3位である三重紡績と第4位の大阪紡績が合併し、東洋紡績となる。資本金は鐘紡、富士とほぼ互角だが、錘数では、44万本(鐘紡41万本、富士19万本)、織機は1万台(鐘紡5千台、富士千2百台)と他の二倍以上とズバ抜けて多かった。
日露戦争から第一次世界大戦までの間は、継続的な不況が続いていたが、大正3年に大戦が勃発すると、紡績業界も大好況に突入して、綿布の輸出が急増し、綿物の需要が爆発的に増加して黄金時代が現出した。
大正5年(1916)65歳で東洋紡の社長に就任し、古希に達した大正9年(1920)に辞任して後進に道を譲った。この間の東洋紡の躍進は利益が十倍の1,160万円になるなど、目を見張る躍進であった。
伊藤伝七は、本業の紡績業と同時に財界活動にも活躍。
明治26年(1893)四日市商工会議所副会頭に選出、その他にも、伊藤メリヤス株式会社(トーヨーニットの前身)、四日市倉庫株式会社(日本トランスシティ株式会社の前身)、四日市製紙会社、五二会館(大日本ホテル)、三重軌道株式会社など、工業、保健、電鉄など幅広く歴任し、三重や中京財界の重鎮でもあった。
参考文献
「10世伊藤伝七の幅広い活動」吉村利夫(三重大学社会連携特任教授 三重県歴史編集委員)
「日本経営の巨人伝13―わが国紡績会の創始者・三重財界の重鎮の伊藤伝七」前坂俊之(静岡県立大学名誉教授)
「東洋紡の成立:三重紡・大阪紡の合併交渉」樋口勝利[関西大学経済論集,66(1):31-46]
―地域が誇る伝統文化「萬古焼」-
始祖である沼浪弄山が、萬古不易の意から、作品に「萬古」と押印をつけたのでこの名称がある。
弄山窯は一般に「古萬古焼」と称し、色絵陶器、銅呈色の緑釉陶(萬古青磁)に特色を発揮した。
とくに意匠が斬新で、オランダ意匠を取り入れ、更紗文様も好んで用いている。趣味性の強いものであったが、殖産性も高く、大量に販売され、宝暦年間(1751~64)には江戸にも進出して「江戸萬古」と称したが、弄山没後まもなく廃窯となった。
その後、古萬古窯から分かれた良助が津に安東(あんとう)焼をおこし、1831年(天保2)には桑名の森有節が小向に窯を再興し、世に「有節萬古」の名で知られるが、古萬古に対して再興萬古ともいい、煎茶器(せんちゃき)や酒器が多い。
また1853年(嘉永6)には同地で倉田久八が「再興安東」(別称阿漕(あこぎ)焼)をおこし、1856年(安政3)には、弄山の縁続きになる竹川竹斎が松坂の射和(いざわ)で「射和萬古」を開窯した。
明治初期には有節萬古を導入して「四日市萬古」が開かれ、煎茶道具が多く焼かれている。